会社員の生き方

「友達なら助けてくれる」と思っていた〜人を信用しすぎた私が学んだこと〜

私は昔、人を信用しすぎるところがありました。「自分が困っている友人を助けるのだから、自分が困ったときも友人は助けてくれる」今振り返ると、どこかでそんなことを当然だと思っていたのだと思います。

もちろん、人を信用すること自体が悪いわけではありません。今でも家族や友人、仕事仲間など、人を信用することは大切だと思っています。ただ、若い頃の私は「人を信用すること」と「相手も自分と同じように行動してくれると期待すること」を混同していたのかもしれません。

その考え方が大きく変わるきっかけになった、大学生時代の2つの出来事があります。

楽しいはずだった正月の飲み会

※当時の写真はないため、写真はイメージです。

大学生の頃、私は大阪で生活していました。そのため正月に地元へ帰り、久しぶりに昔の友人たちと集まって飲みに行くことを楽しみにしていました。その日の飲み会も楽しく終わり、「このあと2次会をどうしようか」とみんなで話していたときのことです。

突然、見知らぬヤンキーの集団に絡まれました。

私は「何とかこの場を収めなければ」と思い、率先して前に出ました。

当時の私には、自分が前に出たとしても、何かあれば一緒にいる友人たちも当然助けてくれるだろう、という感覚があったのだと思います。しかし、実際は違いました。

誰からも援護されず、結果として私一人がトラブルの犠牲になり、通報を受けた警察が来た途端に、友人は私を残して即座に逃げていき、私はその夜を警察署で過ごすこととなりました。(事情を説明して朝に釈放されました)
その日のことは10年以上経った今でも鮮明に覚えています。

顔にも傷を負い、その傷が残った状態で大学の卒業式に出席することになりました。。。
身体的な痛みもありましたが、それ以上にショックだったのが、「なぜ誰も助けてくれなかったんだ」ということでした。

もし友人の誰かが同じ状況になっていたら、自分なら助けに入ったはず。それなのに、自分が同じ状況になったときには誰も来てくれなかった。そのとき、私の中に強烈に残ったのが、「結局、最後に自分を守れるのは自分しかいない」という感覚でした。

「自分なら助ける」と「相手も助けてくれる」は違う

今振り返ると、このときの私は大きな勘違いをしていたのだと思います。「自分ならこうする」と「相手も同じようにしてくれる」は、まったく別の話です。

友人だから助けてくれるはず。自分だったら助けるのだから、相手も助けるはず。そんな期待を無意識のうちに相手に持っていました。でも、人はそれぞれ違います。危険を感じたときにどう行動するかも違いますし、守りたいものや恐怖の感じ方も違います。

もちろん、当時はそんな冷静な分析ができるはずもありませんでした。私がその経験から得た結論は、もっと極端なものでした。

「他人を信用してはいけない」

そして大学生の頃、もう一つ、それを強く感じる出来事がありました。

盗まれた自転車だと知りながら借りてしまった

こちらは最初に、自分自身の行動が間違っていたことを書いておかなければなりません。
当時、盗まれたものだと知っている自転車を、私は借りて使っていました。

今考えれば、その時点で関わるべきではありませんでした。
盗まれたものだと知った時点で「自分は乗らない」と断ればよかっただけの話です。
しかし当時の私は、そこまで深く考えずにその自転車を借り、さらに別の友人に貸しました。

その後、その友人が警察から自転車について聞かれることになります。
友人は警察に対して「自分は彼から借りた」と説明しました。
その結果、話は私のところまで来て、私が自転車を盗んだのではないかと疑われることになりました。

当時の私は、「なんで自分の名前を言うんだ」「友人なのに」と感じた部分もあったと思います。そして、この出来事からも「やっぱり他人を信用してはいけない」と考えました。

でも、今振り返ると、この出来事については明らかに違います。友人が警察に聞かれて、自分がどこから自転車を手に入れたのかを説明するのは当然です。
問題だったのは友人が私の名前を出したことではなく、そもそも盗まれた自転車だと知りながら、それに関わった自分自身の判断でした。

他人の行動より、自分の行動をコントロールする

この2つの出来事は、当時の私にとってはどちらも「人を信用して痛い目を見た経験」でした。でも、それから時間が経った今では、少し違った見方をしています。

特に自転車の出来事について考えると分かりやすいです。友人が警察に何と話すかは、私にはコントロールできません。「自分の名前を出さないでほしい」と期待することはできても、相手がどう行動するかを決めることはできません。

一方で、盗まれた自転車だと知った時点で「借りない」と判断することは、自分自身でコントロールできました。そうしていれば、友人が警察に何を話そうが、そもそも自分が問題に巻き込まれることはありませんでした。

他人がどう行動するかはコントロールできない。でも、自分がどう行動するかはコントロールできる。

若い頃の私は、他人に期待することに比べて、自分自身の行動をコントロールすることの重要性を理解できていなかったのだと思います。

「人を信用してはいけない」は少し違った

2つの出来事を経験した直後の私が出した答えは、「他人を信用してはいけない」「最後に信じられるのは自分だけ」というものでした。当時としては、それくらい強烈な経験だったのだと思います。

ただ、今は少し違います。人を信用しないで生きていくことはできません。仕事をしていても、自分一人ですべてをやることは不可能です。人を信用して仕事を任せなければ、大きな仕事はできません。家族や友人との関係だって、お互いを信用するからこそ成り立つ部分があります。

だから今の私は、「人を信用しない」のではなく、「人を信用するけれど、期待しすぎない」という考え方に近くなっています。

自分でコントロールした方がいいと判断したことについては、できるだけ自分でやる。一方、自分一人ではできないことまで抱え込むつもりもありません。その場合は、人を信用して任せます。

ただし、「任せたのだから、必ず自分が期待した通りにやってくれるはず」とは考えない。信用して任せることと、相手に依存することは違うからです。

「任せるが、依存しない」今の私には、このくらいの距離感がちょうどいいように感じています。

そもそも「危ない場所に立たない」

そして、自転車の出来事から学んだもう一つのことがあります。それは、そもそも道を外れたことをしないという、ごく当たり前のことです。

盗まれた自転車だと知った時点で関わらなければ、その後の問題はすべて起こりませんでした。これは大人になった今考えると、当たり前の話です。でも、リスク管理とは案外こういうものなのかもしれません。

問題が起きてから「どうやって切り抜けるか」を考えるより、最初から大きな問題が起きる可能性のある場所に近づかない。危険なことには手を出さない。自分でコントロールできないほど大きなリスクを取らない。そして、「何かあったら誰かが助けてくれるだろう」を前提にしない。

若い頃の自分には、この考え方が足りなかったと思います。

人を信じるが、自分の人生の責任までは預けない

振り返ってみると、大学生の頃に経験した2つの出来事は、決して良い思い出ではありません。特に正月の出来事については、せっかく久しぶりに地元の友人たちと集まった楽しい時間が一転し、卒業式まで顔に傷が残ることになりました。

ただ、それらの経験がその後の私の考え方に影響を与えたことは間違いありません。若い頃の私は「他人を信用してはいけない」と考えましたが、今はそうではありません。

人は信用する。自分一人ではできないことは、信用して任せる。でも、期待しすぎない。自分でコントロールすべきことは、自分でコントロールする。そして相手が自分の期待通りに動いてくれることを前提に、自分が大きなリスクを取らない。何より、自分自身が道を外れたことをしない。

「自分ならこうするから、相手もこうしてくれるはず」と「人を信用する」は別のことです。

他人の行動を完全にコントロールすることはできません。でも、自分がどんな選択をするかは、自分で決めることができます。

人を信用する。でも、自分の人生の責任まで他人に預けない。

若い頃に痛い思いをした2つの経験を振り返ってみると、それが今の私がたどり着いている答えです。